翻訳の歴史を探ろう!江戸・明治時代の翻訳者たち

2024.11.27

  • 翻訳あれこれ
翻訳の歴史を探ろう!江戸・明治時代の翻訳者たち

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    「ペリーが来航したとき、翻訳者や通訳者は存在していたの?」

    皆さんはこのような疑問を持ったことはありませんか?

     

    近年では、翻訳が身近になったことで誰でも気軽に海外の情報を得られるようになりました。しかし、日本で最初に翻訳をおこなった人物やその方法、翻訳者という職業はいつから存在していたのかなどは、あまり知られていませんよね。

    そこで今回は、いくつかのエピソードを交えながら、日本の江戸・明治時代における翻訳の歴史を紐解いていきます。

    とらんちゃん

    今回の記事は、日本にフォーカスして翻訳の歴史を紹介するよ!
    世界における翻訳の歴史を紹介した記事もあるから、ぜひ読んでね!
    翻訳の歴史を探ろう!世界最古の翻訳は?

    江戸時代の翻訳事情:蘭学の発展

    江戸時代より前の日本では、翻訳の対象は仏教経典や中国の文献が主流でした。江戸時代になると、西洋の知識がオランダ語を通じて日本に入ってきます。

     

    では早速、江戸時代の翻訳・通訳事情について詳しく見ていきましょう。

    「通詞/通事」という職業

    「通詞/通事(つうじ)」は、江戸時代の日本で公式の通訳者として活躍した役人を指します。一般的に「通詞」はオランダ語の通訳(オランダ通詞、蘭通詞)、「通事」は中国語の通訳(唐通事)を指し、漢字が使い分けられています。

     

    「通詞/通事」の仕事は単なる通訳にとどまらず、翻訳はもちろんのこと、貿易品の評価や外国人の管理、貿易許可証の発行など、税関吏としての役割も果たしていました。

    江戸時代に活躍したオランダ通詞

    オランダ通詞は、日本とオランダ間の通訳や翻訳を担う専門家として、主に長崎の出島に駐在し、オランダ商館との交渉や情報交換を担当しました。

     

    1656年に大通詞・小通詞という階級が設けられ、さらに1696年には「オランダ通詞目付」が置かれるなど、最終的には13段階に細分化され、組織化が進んでいきました。1人の目付の下に大通詞、小通詞、小通詞助、小通詞並、小通詞末席、稽古通詞、内通詞などがそれぞれ若干名ずつ配置され、その数は幕末には約140人にも達したと言われています。

    日本で初めて英語を学んだ?オランダ通詞「堀 達之介」

    堀 達之介(ほり たつのすけ)は江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した通詞であり、辞書編纂者です。1823年に長崎で生まれ、オランダ通詞であった父の跡を継ぎ、1845年に小通詞末席としてキャリアをスタートさせました。

     

    1848年にはアメリカの捕鯨船員ラナルド・マクドナルドから日本の地で初めて英語を学んだと言われています。これにより、達之介はオランダ語と英語を習得しました。

    黒船来航と日米和親条約

    黒船(サスケハナ号)

    黒船(サスケハナ号)
    published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association), Public domain,via Wikimedia Commons

    1853年の黒船来航時に達之介は、マシュー・ペリー提督の旗艦サスケハナ号に対して「I can speak Dutch!(私はオランダ語が話せる)」と叫び、オランダ語で交渉をおこなったと言われています。その活躍が認められ、翌年の日米和親条約の和訳も担当しました。

     

    その後、幕府の対訳辞書編集主任となった達之介は、外国の新聞の翻訳や、日本初の本格的な英和辞書である「英和対訳袖珍(しゅうちん)辞書」の刊行にも携わりました。

     

    ペリー来航時の通訳者であり、日本初の英和辞書刊行を成し遂げた堀 達之介の功績は、日本の近代化と国際化の礎となりました。

    「解体新書」の杉田玄白はオランダ語が苦手だった?

    「ターヘル・アナトミア」(複製)国立科学博物館の展示

    「ターヘル・アナトミア」(複製)国立科学博物館の展示
    Momotarou2012, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

    杉田 玄白(すぎた げんぱく)はオランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳者としても有名ですが、翻訳書が完成するまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。

     

    医者だった玄白は、オランダの学問を学ぶために通詞の西 善三郎(にし ぜんざぶろう)にオランダ語を教えて欲しいと頼みましたが断られてしまい、あっさりとオランダ語の習得を諦めてしまいます。

     

    そして、39歳のときに出会った「ターヘル・アナトミア」が彼の人生を大きく変えます。この解剖書には、人間の内臓や筋肉、骨格などが詳しく描かれており、体の中を見たことがなかった玄白は衝撃を受けました。

    その後、処刑された囚人の解剖に立ち会う機会を得た玄白は、「ターヘル・アナトミア」に記されていた解剖図の正確さに驚き、「人の体の中も知らずに医者をしていたとは・・・面目もなき次第」と無知であったことを恥じ、「ターヘル・アナトミア」の日本語への翻訳を決意します。

     

    医学者仲間の前野 良沢(まえの りょうたく)らと共に翻訳を始めた玄白でしたが、当時は蘭蘭辞書(オランダ語の国語辞典)しかなく、かろうじてオランダ語を理解していた良沢がいながらも、翻訳作業は暗号を読解するかのように難航を極めました。

     

    ひとつひとつの単語と格闘しながら、4年近い歳月をかけて翻訳を完成させた玄白。誤訳も少なからずあったものの、日本語の解剖書が出版されたことを機に、日本の医学は大きく前進していったのです。

    とらんちゃん

    語学力と専門知識が必要なのは、現代の翻訳とも通じるね!
    「軟骨」や「神経」などの日本語もこのときに作られたんだって。

    明治時代の翻訳事情:近代化と翻訳

    明治時代に入ると、西洋の法律、文学、科学技術が大量に日本語に翻訳され、新しい概念や言葉が次々と生まれました。

    明治時代に生まれた「和製漢語」

    近年は、翻訳が独立した職業となっていますが、明治時代には主に作家や学者たちが翻訳者としても活躍しています。特に作家の中には優秀な翻訳者も多く、外国文学の影響を受けながら自らの創作活動にも励みました。外国語に堪能だったとはいえ、外国の考えを表現する適切な日本語がないことも多々あり、苦労しながら翻訳をおこなっていたといいます。

     

    そして、その過程において、いくつもの「和製漢語」が新たに誕生しました。例えば「美術(art)」、「文化(culture)」、「時間(time)」、「恋愛(love)」といった、今でも日常的に使用されている言葉は、実は明治時代に生み出されています。新しく生まれた日本語は、新聞や小説によって世間一般に広く浸透し、定着していきました。

     

    ※「和製漢語」とは、日本で日本人によって作られた漢語のことです。特に幕末から明治時代にかけて西洋の概念を導入するために多く作られましたが、幕末・明治に作られた漢語は「新漢語」とも呼ばれます。

    明治時代に活躍した「翻訳者」

    明治時代には多くの翻訳者が活躍しましたが、その中でも特に有名な人物に福沢 諭吉(ふくざわ ゆきち)や森 鷗外(もり おうがい)がいます。

     

    著書「学問のすすめ」や慶應義塾の創設者でも有名な福沢諭吉は、翻訳者でもありました。欧米の書籍を多数翻訳し、「自由(liberty)」、「経済(economy)」などの和製漢語も諭吉が生み出したと言われています。

     

    また、森鷗外も明治時代の重要な翻訳者の一人です。東京大学医学部を卒業した鷗外は、陸軍軍医、官僚、教育者、翻訳家などの肩書きを持っており、軍医総監(軍医のトップ)に就いたこともある経歴の持ち主です。「舞姫」や「高瀬舟」など、小説家としても有名な作品をいくつも残していますが、ドイツ留学の経験もある鴎外は、そのかたわらでゲーテなどの外国文学の翻訳もおこなっていたそうです。

    森鴎外記念館(ドイツ ベルリン)

    森鴎外記念館(ドイツ ベルリン)
    Tischbeinahe, CC BY 3.0,via Wikimedia Commons

    番外編:「夏目漱石」と「正岡子規」

    小説家の夏目 漱石(なつめ そうせき)は、英語に親しみ、東京帝国大学(現・東京大学)で英文学を学んだ英文学者でもあります。

     

    英語教師をしていた頃、漱石は「I love you」を「我君を愛す」と翻訳した教え子に「日本人はそのような直接的な言い方はしない。月が綺麗ですね、とでも訳しておきなさい」と返したとされる有名なエピソードもあります。

    とらんちゃん

    漱石は教師時代に、生徒から「先生、辞書と違います」と指摘されたときに「それは辞書が間違っている。後で直しておくように」と言い放ったほど負けず嫌いだったんだって!

    そして、漱石と同い年で親友関係にあったのが、俳人として有名な正岡 子規(まさおか しき)です。漱石と子規の友情は、互いの文学活動に大きな影響を与えたとも言われています。

     

    実は子規は野球が大好きで、幼名の「升(のぼる)」をもとにして、「野球(のぼーる)」という雅号(ペンネーム)も使用していました。また、子規は野球のルールや用語を日本語に翻訳し、「打者」、「走者」、「直球」などの用語を生み出しました。これらの野球用語は今も広く使われていますよね。

    松山中央公園野球場前の正岡子規の俳句の碑

    松山中央公園野球場前の正岡子規の俳句の碑
    Public domain, via Wikimedia Commons

    まとめ

    いかがでしたか。今回の記事では、主に江戸時代と明治時代の翻訳事情についてご紹介しました。翻訳は単なる「言語」の架け橋にとどまらず、異なる「文化」の架け橋としても重要な役割を担ってきたことが分かりましたね。

     

    今後も翻訳は、異なる言語や文化を尊重し合うために、重要な役割を担っていくことでしょう。

    ここまでお読みいただきありがとうございました。

     

    ※翻訳の歴史については、さまざまな説や解釈があります。本記事で紹介した内容はその一部であり、他にも多くの視点や研究が存在します。

    翻訳センター インサイドセールスチーム

    とらんちゃん

    とらんちゃん

    「とらん」だけに「トランスレーション(翻訳)」が得意で、世界中の友達と交流している。 ポケットに入っているのは単語帳で、頭のアンテナでキャッチした情報を書き込んでいる。

    • 生年月日1986年4月1日(トラ年・翻訳センター創業と同じ)
    • モットー何でもトライ!
    • 意気込み翻訳関連のお役立ち情報をお届けするよ。

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